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第3話 祝福の写真

Author: いろは杏
last update publish date: 2026-08-25 07:00:00

 それは、何の変哲もない一枚の写真だった。

 共通の知人が「いいね」を押したことで、たまたま杏奈のタイムラインに流れてきた投稿。投稿者の名は、宝生亜里沙。

 昴の初恋の女だ。

 杏奈はその名前を見るだけで、いつも胸の奥がざらりと痛んだ。華やかで、目を引く美貌の女。明るいブラウンの髪を惜しみなく巻き、唇には鮮やかな赤を引いた、自信に満ちた笑み。

 昴の前では「か弱く可憐なシングルマザー」を演じながら、杏奈と二人きりになると、決まって猫のように目を細めて囁くのだ。

『昴さんが本当に欲しかったものが何か、あなた、気づいてもいないのね』

 その亜里沙が投稿した一枚の写真。

 ガラス越しの街灯りの下、杏奈は震える指で画面を拡大した。

 そこには、温かな光に満ちた部屋が写っていた。大きなテーブルの上には、何本もの蝋燭を灯したホールケーキ。色とりどりの飾りつけ。そしてその中心で――幼い子供を抱き上げ、目を細めて笑う昴の姿があった。

 杏奈は、息をするのを忘れた。

 笑っている。昴が、笑っている。

 五年間、ただの一度も自分には向けられたことのない表情だった。あの氷のような双眸が、今はやわらかくほどけて、腕の中の子供を慈しむように見つめている。

 前髪が少し乱れ、口元には見たこともないほど優しい弧が描かれていた。まるで、本物の――父親のように。

 写真に添えられた亜里沙の言葉が、追い打ちをかけた。

『今日は大切な人の誕生日。みんなでお祝いできて、本当に幸せな一日でした。やっぱり、家族っていいね』

 家族。

 その二文字が、杏奈の胸を鋭く抉った。

 あの子は誰の子なのだろう。亜里沙は、子の父親を決して明かそうとしない。けれど、こんなにも幸せそうに子を抱く昴の姿を見せられて、信じずにいられるだろうか。

 あの子は、もしかしたら――。

 いや。考えるな、と杏奈は自分に言い聞かせた。考えてはいけない。

 けれど、一度生まれた疑念は毒のようにじわじわと広がっていった。

 今朝、ドアの前で躊躇った昴の背中。あれを雪解けの予兆だと信じた自分。ほんの数時間前、退院したばかりの病室で、この子が彼の心を溶かしてくれるかもしれないと夢を見た自分。その何もかもが、今、この一枚の写真の前で惨めに色褪せていく。

 昴の心は、とっくに溶けていたのだ。

 ただ――自分以外の、誰かのために。

 杏奈の指先から、ぽとりと携帯が滑り落ちそうになった。すんでのところで握りしめ、彼女はガラスのショーウィンドウによろりと額を寄せた。

 淡い黄色のおくるみが、すぐ向こうに飾られている。さっきまであんなにも愛おしく見えたそれが、今はひどく遠かった。

 お腹の子のことを、伝えようとしていた。命を授かった喜びを、分かち合いたかった。

 けれど、彼にはもう、分かち合う家族がいるのだとしたら。

 わたしの差し出す喜びなど、彼にとっては何の意味も――。

「……杏奈?」

 ふいに、背後から名前を呼ばれた。

 聞き覚えのある、けれど、ずいぶん久しぶりに耳にする声だった。穏やかで、低く、どこか懐かしい響き。杏奈がのろのろと振り返ると、街灯の下に一人の男性が立っていた。

 柔らかな黒髪に、優しげに垂れた目。シルバーフレームの眼鏡の奥で、その人は心配そうに眉を寄せていた。仕立てのよいコートを着崩した、知的で穏やかな佇まい。

 杏奈はその顔を見た瞬間、思わず目を見開いた。

「……椿、先輩」

 椿翔一。大学時代、サークルの先輩だった人だ。

 ピアノに打ち込む杏奈の音に、いつも穏やかに耳を傾けてくれた。法学部の優秀な先輩で、困っている誰かには、決まってさりげなく手を差し伸べる、そういう人だった。

 杏奈が昴と結婚してから、椿とは自然と疎遠になっていた。――いや、正確には、彼のほうから静かに距離を置いたのだ。その理由を、当時の杏奈は分からずにいた。

「やっぱり、杏奈だ。久しぶりだね」

 椿は、安堵したように微笑んだ。けれどすぐに、その笑みに翳りが差した。街灯の下に立ち尽くす杏奈の、その尋常でない様子が、彼の目にはっきりと映っていたのだろう。

「……顔色が、ひどく悪い。何か、あったのか?」

 優しい声だった。あまりにも優しくて、杏奈は危うく、その場で泣き崩れそうになった。

 誰かにこんなふうに案じてもらうのは、いったいいつぶりだろう。家では、夫に名前を呼ばれることすら稀なのに。

「いえ……何でも、ないんです。少し、立ちくらみがして」

 杏奈は無理に笑顔を作ろうとした。けれど、その笑みは途中で歪み、唇が小さく震えた。

 椿はそれ以上問い詰めなかった。ただ、そっと一歩近づき、彼女がふらつかないよう、さりげなく傍に寄り添った。決して馴れ馴れしくはない。けれど、確かな気遣いのこもった距離だった。

「立ち話もなんだ。少し、座って休もう。すぐそこに、静かな店がある」

 断る気力も、もう残っていなかった。杏奈は、こくりと頷いた。

 二人は、近くの小さな喫茶店に入った。ほとんど客のいない、落ち着いた店だった。温かい紅茶を一口飲むと、凍えていた指先に、ようやくわずかな血の気が戻ってきた。

 椿は向かいの席で、急かすことなく彼女を待っていた。その静けさが、かえって杏奈の張りつめていた糸を、少しずつ緩めていく。

「……実は、今日」

 気づけば、杏奈はぽつりと言葉をこぼしていた。

 なぜこの人に話そうと思ったのか、自分でも分からない。ただ、五年ぶりに触れた他人の優しさに、心の堰が決壊しそうになっていた。

 もちろん、すべては話さなかった。病のことも、お腹の子のことも、言えるはずがない。ただ、ずっと胸につかえていた漠然とした苦しさの一端だけが、声になってこぼれ落ちた。

「夫に……愛されていないのだと、思い知らされて」

 言ってしまってから、杏奈ははっと口をつぐんだ。家庭の恥を、こんなところで吐露するなんて。けれど、一度こぼれた言葉は、もう戻らなかった。

 椿は、表情を変えなかった。ただ、その垂れた目が、ほんの少し、痛みをこらえるように細められた。

「……そうか」

 彼は、それだけ言った。余計な慰めも、無責任な励ましも、口にしなかった。けれど、その短いひと言には、杏奈の苦しみをまるごと受け止めるような、深い静けさがあった。

 しばらくの沈黙のあと、椿はゆっくりと口を開いた。

「杏奈。昔から、君は人に尽くしすぎるところがあった」

 杏奈は、顔を上げた。

「自分を後回しにして、誰かのために、自分をすり減らす。学生の頃から、ずっとそうだった。ピアノだって――本当は、もっと自分のために弾けたはずなのに」

 その言葉は、不思議なほど、杏奈の胸の深いところに届いた。

 ピアノ。もう何年も触れていない。昴が好まないからと、自ら蓋をした、かつての自分の声。

「……先輩は、覚えていてくれたんですね。わたしが、ピアノを弾いていたこと」

「忘れるわけがない」

 椿は、静かに、けれどはっきりと言った。

「君の弾く音が、好きだった。あの音には、君そのものがこもっていたから」

 その言葉に、杏奈の目の奥がじわりと熱くなった。

 すり減らし続けて、もう自分の輪郭さえ見失いかけていた彼女に、誰かがこんなにもまっすぐに「君を覚えている」と言ってくれる。それが、どれほど救いだったか。

 けれど――救われてはいけない、と杏奈は思った。

 自分には、もう時間がない。あと一年で、消える命だ。そして、お腹には昴との子がいる。たとえ夫に愛されていなくても、自分はまだ神崎の妻なのだ。この優しさに、甘えてはいけない。

「……ありがとうございます、先輩。少し、楽になりました」

 杏奈は紅茶のカップを置き、丁寧に頭を下げた。これ以上、長居をするわけにはいかなかった。

 椿は何か言いたげに口を開きかけたが、結局それを呑み込んだ。代わりに、一枚の名刺を、そっとテーブルの上に滑らせた。

『弁護士 椿翔一』――名刺には、その肩書きが記されていた。

「もし、何か困ったことがあったら。――本当に、どうしようもなくなったときには、ここに連絡してほしい」

「弁護士として、じゃない。ただ、君の味方として、だ」

 その言葉を、杏奈は深く考えずに受け取った。コートのポケットにしまったその名刺が、思いのほか硬く、てのひらにいつまでも残った。

     * * *

 店を出て、椿と別れ、杏奈は一人、夜道を歩いた。

 胸の苦しさは、少しだけ和らいでいた。けれど、根本的な何かは、何ひとつ解決していない。SNSの写真は、まだ瞼の裏に焼きついていた。あの、昴の優しい笑み。

 それでも杏奈は、もう一度だけ信じてみようと思った。

 今夜、家に帰ったら。

 昴に、子供のことを伝えよう。あの写真が何を意味するのか、確かめるのが怖くても。たとえ拒まれても。この命だけは、彼に知る権利がある。

 もしかしたら、子供がいると知れば、彼の心も――。

 むなしい期待だと、もう何度、自分を笑っただろう。それでも、捨てきれない。

 ――六年前の、あの夜があるからだ。

 まだ、彼と出会って間もないころ。杏奈は、あるパーティーの片隅で、雇われの奏者としてピアノを弾いていた。

 酔った男が絡んできたのは、演奏を終えた直後だった。無遠慮な手が、杏奈の手首を掴む。振りほどこうとした拍子に体が傾き、男の腕が、開いたままの重い鍵盤蓋を弾いた。

 ――指が、潰される。

 とっさに目を閉じた杏奈の耳に、鈍い音が響いた。けれど、痛みは来なかった。

 恐る恐る目を開けると、落ちてきた蓋と鍵盤のあいだに、一本の腕が差し込まれていた。

 昴の、腕だった。

 彼は顔色ひとつ変えず、一瞥だけで男を退けた。手の甲に、みるみる血が滲んでいく。杏奈が慌ててその手を取ろうとすると、彼はそっけなく引いた。そして、たった一言。

『その手は、音を奏でるためのものだろう』

 それだけ言って、彼は背を向けた。名乗りもせずに。

 ――たった、数秒だった。

 けれど杏奈にとって、その数秒は、五年ぶんの冷たさよりも、ずっと重かった。あの人は、わたしの指を守ってくれた。その手が、今は、わたしから音楽を取り上げているのだとしても。

 愚かだと、分かっている。たった一度の優しさを、彼女は五年かけて、擦り切れるまで信じ続けた。

 それが、杏奈という女だった。

 神崎邸に着いたのは、夜も更けたころだった。

 昴は、まだ帰っていなかった。「今日は遅くなる」と、今朝、彼は言っていた。あの写真の中の場所から、彼はいつ戻ってくるのだろう。

 杏奈はリビングの灯りをつけ、彼の帰りを待つことにした。冷めてしまった夕食を、もう一度、温め直しながら。

 そうして、長い夜が静かに更けていく。

 待ち続ける杏奈は知らなかった。

 数日後、昴という男の本性が、最も残酷な形で暴かれることを。

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